神奈川県伊勢原市で毎年秋に開催されている、伊勢原観光道灌まつり(以下道灌祭り)は今年で57回目を迎えます。
道灌祭りについて紹介している記事はこちら。
祭りの名前になっている武将、太田道灌(おおた・どうかん)とは一体どんな人物なのでしょうか。
この記事を読むと以下のことが分かります。
- 太田道灌はどんな人物なのか
- 道灌の人となりが分かるエピソード
- 道灌祭りに北条政子が登場する理由
太田道灌について知っておくと、より道灌祭りが楽しみになりそうですよね。
道灌祭りには北条政子も登場するのですが、その理由についても解説しますのでぜひ最後までお読みください!
太田道灌(おおた・どうかん)って誰?
私は道灌祭りの存在は知っていましたが、「道灌」が人名であることを恥ずかしながら初めて知りました…。
(なんなら読み方も知りませんでした汗)
太田道灌がどんな人物なのか、人となりが分かる有名なエピソードも一緒に紹介します。
武芸と学問に秀でた名将
太田道灌は、太田資清(おおた・すけきよ)の子として1432年に生まれました。
太田家は鎌倉公方(鎌倉府を補佐する長官)の扇谷上杉家に代々仕える、由緒ある武士の家柄です。
道灌の父親である資清は関東でも指折りの知識人として知られる、優秀な武将でした。
道灌の出身地は現在の埼玉県越生町と言われています。
子どもの頃から優秀だった道灌は幼少の頃から学問に励みました。
9歳になると神奈川県鎌倉市にある建長寺で学び、その後は足利学校(鎌倉時代につくられたと言われる現代の大学のような教育機関)でも学びます。
数々の戦で勝利をおさめるだけでなく歌人としての才能もあり、いくつもの和歌を詠んでいます。
道灌は城をつくる名人で、江戸城を築城したことでも知られています。
江戸城と言えば徳川家康の印象が強いですが、実は室町時代に道灌が建てていたんですね。
道灌が建てた江戸城を拡張したのが後の徳川将軍家で、現在の皇居跡としても知られています。
太田家は始めは一介の家臣にすぎませんでしたが、道灌があまりにも優秀だったため影響力が強まると、主君である扇谷上杉家から疎ましく思われるようになりました。
その結果、道灌は仕えていた扇屋上杉家の当主である上杉定正から謀反の疑いをかけられ、1486年に暗殺されてしまいます。
暗殺された場所が現在の伊勢原市と言われています。
伊勢原市では道灌をしのぶためと、市を盛り上げるイベントの一環として昭和43年から道灌祭りを開催しています。
太田道灌の人となりが分かるエピソード3選
太田道灌にはいくつもの逸話や伝説があります。
その中でも道灌の人となりが分かるものを3つ厳選してご紹介します!
父、資清よりも賢かった?
子どもの頃から聡明だった道灌は、知識人であった父・資清をしのぐ物言いをすることがありました。
あまりに賢すぎる道灌を心配した資清が、部屋の障子を指して
「障子はまっすぐだから立つのであって、曲がっていては立たないのだよ」
と注意しました。
「あまり自分の頭脳をひけらかすものではない、生意気を言うものではないよ。」
というつもりで言ったのでしょう。
すると道灌は近くにあった屏風を指さし、
屏風は曲がっているから立ち、まっすぐでは立ちません。
と返したと言われています。
ああ言えばこう言うという感じではありますが(笑)
道灌は子どもの頃から頭の回転が速く、大人を言い負かすこともできたということが分かる逸話です。
有名な伝説、山吹の娘
道灌に関する有名な伝説のひとつが、『山吹の娘』です。
ある日外出した道灌は大雨に降られてしまい、雨よけの蓑(みの)を借りようとみすぼらしい民家を訪ねました。
家の中から出てきた若い娘に、道灌は声をかけます。
申し訳ないが、雨よけの蓑を貸してくれないか。
しかし娘は何も言わず、うつむいたまま山吹の花を1本だけ差し出しました。
娘の行動が何を意味するのか分からない道灌は怒ってしまい、その場を立ち去るとずぶ濡れのまま帰宅。
家臣の1人に帰り道であったことを話すと、
それは『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)のなかの兼明親王(かねあきらしんのう)の歌
『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき』
にかけて、貸せる蓑がないほど貧しいことを伝えたかったのではないですか
と教えられたのです。
自分が無知であることを恥ずかしく思った道灌は、この出来事をきっかけにより一層和歌を学ぶようになったと言われています。
道灌の向学心の強さが分かる伝説ですね。
潔い最期
道灌は1486年に仕えていた扇谷上杉家の当主、上杉定正が差し向けた刺客によって暗殺されました。
まともに討ちあっても勝てないと思われたからか、入浴後で丸腰の時に刺客に襲われたのです。
刺客に刺される間際に道灌は
「当方滅亡!」
と叫んだとされています。
ここで言う「当方」とは太田家のことではなく、道灌が仕えていた扇谷上杉家のことです。
自分がいなくなれば扇谷上杉家は滅びるぞ、と言いたかったのですね。
道灌が和歌に通じていたことを知っていた刺客が
「かかる時 さこそ命の 惜しからめ」(こんな時はさぞ命が惜しいことだろう)
と上の句を詠むと、道灌はそれに応じて
かねてなき身と 思ひ知らずば
と下の句を詠んだと言われています。
「もともと自分の身などないと思って生きてきた」
という意味です。
誠心誠意、主君のために仕えてきたのに…無念さが伝わってきます。
道灌が亡くなった後、扇谷上杉家は長享の乱(ちょうきょうのらん)で敗北したことをきっかけに滅亡してしまいます。
道灌は名実ともに優れていた人物だったことは間違いないですね。
太田道灌と北条政子の関係は?
道灌祭りの開催2日目には、大田道灌公鷹狩行列と北条政子日向薬師参詣行列が催されるのが恒例となっています。
芸能人が太田道灌と北条政子に扮して伊勢原の通りをパレードするのですが…
道灌はともかく、なぜ北条政子が登場するのでしょうか?
その疑問に迫ってみました。
道灌と正子は赤の他人、歴史上でも接点なし
結論から言うと、太田道灌と北条政子の間には特に関係はありません。
道灌が活躍したのは室町時代中期、政子が生きていたのは平安時代末期から鎌倉時代初期とそれぞれ生きていた時代が違い、血縁関係もありません。
実は政子の夫、源頼朝と伊勢原市との間に縁があるんです!
頼朝と政子が信仰した霊山寺
伊勢原市には大山(おおやま)と呼ばれる山があり、頼朝は戦勝祈願のために大山寺に田畑を奉納しています。
さらに頼朝は政子が第3子を出産する前の安産祈願や、娘・大姫の病気が治ることを願って霊山寺(現在の北城坊)を参詣しています。
頼朝が亡くなった後は、鎌倉幕府の三代将軍である源実朝の妻と政子が一緒に霊山寺を参詣しています。
頼朝の十三回忌に訪れたとも考えられており、頼朝亡き後も政子が霊山寺を信仰していたことが分かりますね。
また、政子の実家である北条家が大山信仰を広めたとも言われています。
このことから政子は伊勢原市との縁があり、道灌祭りに登場するようになったと考えられます。
太田道灌は現代まで名前が残る、知る人ぞ知る名将だった!
太田道灌は一般的にはあまり知られていませんが、武芸と学問に優れた文武両道の武将です。
その名をとった道灌祭りは今年も開催されるので、道灌に思いをはせながらお祭りを楽しむのも良いですね。
伊勢原市の一大イベント、道灌祭りにぜひ遊びに行ってみてはいかがでしょうか。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
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